用と美


 実用性こそは工芸の本質である。この性質を欠くものを工芸と呼ぶことは

出来ない。だから実用性の稀薄なものは、それだけ工芸性を失ってくる。そ

うして工芸性を失えば、そこに正しい工芸の美を予期することは出来ない。

 実用とは実際の生活に役立つ意味である。ここで生活は衣食住を中心とす

るから、用がそれ等のものへの用を意味するのは当然である。用は衣食住へ

の用である。働く時に、休む際に、食事する場合に、吾々の暮しを助けるも

のが工芸である。この助けを借りればこそ生活が滑らかに運ぶ。どこまでも

実用を離れないのがその性質である。

 造形の世界を振り返ると、この「用」ということが、如何に重要な意味を

有つかが分かる。大にしては建築から、衣服、調度、小にしては手廻りの諸

道具に至るまで、悉くが用途を目的に生産された。昔は絵画や彫刻も共に用

の性質を帯びた。

 用いるということは必要とすることである。なくてならない求めに応ずる

ことである。だから「需要」とか「必需」とかいう言葉が見える。この需め

に応じて色々なものが拵えられる。生活が複雑になれば、それだけ需めるも

のは多い。品物とは用途のために生まれた存在をいう。「用途」即ち「使い

みち」や「用いどころ」のない品物はない。ここで品物が形を有つ具体的な

ものであるのは言うを俟たない。

 元来「用いる」という言葉は、「持つ」より由来するのであって、形ある

ものを手に持つ意味である。それ故「用」は、「はたらき」である。作用、

効用、妙用など、様々に綴られてくる。だから或る品が実用になるというこ

とは、それが「機能」を有つという意味である。機能を有つ造形品を工芸品

だと定義してよい。易しく云えば「働きのある品」、「役立つ品」と説いて

もよい。約言すれば、生活に役立たせるために、人間が作った品物、これが

工芸品である。

 だから凡ての品物は用によく適うように作られねばならない。ここで例を

椅子にとるとしよう。それは腰掛けるためであるから、腰掛けとしての充分

な適合性を有たなければいけない。一塊の岩、一片の株も腰掛けにはなろう。

しかしそれを工芸品と呼ぶわけにゆかない。腰掛けが求める色々な性質を欠

いているからである。だから人間は工夫して椅子を作る。第一腰掛け易いも

のでなければならない。椅子の幅、奥行、高さ、背の丈、又腕をつけるべき

か、それ等の湾曲はどの程度か、更に是等が人の丈で変化をうける。次には

構造が大切である。ぢきに壊れるようでは何もならぬ。それには確とした組

方が要る。ここで多くの力学的考慮が入らねばならぬ。しばしば動かすもの

であるから重みのことも考えねばならぬ。同じ椅子でも、事務用のもの、書

斎用のもの、休憩用のもの、食堂用のもの、それも室内のもの、外庭のもの、

それぞれに働きが違う。それにはどんな材料が適するか。ここで材料が形を

左右する。木材の場合、之に布を張る場合、皮を用いる場合、又金工にする

場合、竹で組む場合、籐で編む場合、稀には石で造る場合、陶器で拵える場

合などと様々あろう。だが何れも人のために時と場所とを得て、用に即して

拵えられねばならぬ。用いにくかったり、ぢきに壊れたりするようでは、椅

子としての機能を果たすわけにゆかぬ。工芸品は用途を充たすべき使命を帯

びる。

 同じく水を入れる甕、料理を盛る皿、身に纒う着物、物を仕舞う箱、それ

等のことは何を意味するであろうか。ここに三つのものが交わっていること

が分かる。用いる人、用いられる物、是等の二つを結びつける働き、即ち機

能。是等が揃う時暮しが滑らかに運ぶのである。

 だがここで注意する必要がある。実用とは実際的な用であるため、とかく

物質的な用とのみ思われ易い。特に肉体の働きを助けるもの、着たり、食べ

たり、住んだりするのを助けるのであるから、用を物質的な意味にのみ受取

り易い。実際工芸が美術に対して軽く見られていた大きな原因も、工芸が物

質的な一面に深く関係しているからである。これに対し美術は純精神的なも

のとされるから、その位置が高く評価された。かくして実用ということは格

が一段下ったものときめられている。それは唯物論が唯心論よりも、下凡の

哲学だという考えにも現れている。だが実用ということを物質的に解するの

は果たして妥当であろうか。一面的な見方に過ぎなくはないか。唯物といっ

ても、観念に結ばれずして唯物という考えを述べることは出来ない。純粋な

唯物というようなことは人間の生活面にあり得るであろうか。唯物論と雖も

一つの哲学なのである。哲学なら一種の精神的思想である。唯物論自体は決

して唯物的なものではない。

 実用ということを物質的意味に受取るのは、人間の暮しを余り狭隘なもの

に解し過ぎる。吾々の生活は肉体だけの生活ではない。精神を切り離した肉

体というが如きものは何処にも存在しない。生活は体の暮しであり兼ねて又

心の暮しである。生活は物質的なものと心理的なものとの結合である。否、

元来一体をなしているものを、便宜上物心の二つに分けて考えるに過ぎない。

 だから生活に役立つということは、体の求めと共に心の求めも交わってく

る。物質的用と心理的用とはいつも結ばれ乍ら働いている。だから機能とい

うことは、物理的性質を示すだけではない。それは心理的機能をも有たねば

ならない。使いよいとか使いにくいとかいうことは、なかば心の言葉である。

のみならず品物を単なる物質というわけにゆかない。人間が作るものである

限り、人間の心が反映する。識らずして智慧や感覚や感情や性格や道徳が織

り込まれてくる。物も人間の心を受取るのである。性格のない物ということ

は考えられない。だから用いる人、用いられる物、それ等を結ぶ機能、それ

ぞれに物心の二面が働いている。このことは工芸の美を理解する上に極めて

緊要な事項である。

 適切な例を挙げるとしよう。食物が生存の上に欠くべからざるものである

のは言うを俟たない。だがそれは単に肉体上の必要に限られるものであろう

か。食欲に心理的なものが働かないであろうか。肉体的需要が心理的作用に

よって増強されたり、減退されたりするのではないか。心的要素を交えない

物的要求を考え得るであろうか。食欲は体の求めであり兼ねて又心の求めだ

と云える。

 若し食物が純粋に肉体的な求めであるなら、滋養さえあれば事は足りよう。

皿にどう盛ろうと、色がどんなであろうと、又香りが少しも無かろうと、何

もかまわぬであろう。だが人間は味わいを求め、香りを愛し、色を選び、舌

触りをさえ考えている。それは心的な快感を伴うからである。否、これがな

いと食欲が減る。栄養価は何も理化学的性質に限られているのではない。若

し汚く皿に盛られたり、毒々しい色であったり、香味が乏しかったりしたら、

食欲を誘わない。食欲の減退は消化の機能を衰えさせて了う。これが栄養価

を下げるのは言うを俟たない。

 だから人間は料理に心を向ける。それは既に大きな芸能の一部とさえなっ

ている。支那料理の如き真に驚嘆に価しよう。人間は美味を好む。だが料理

だけに止めるのではない。それを綺麗に皿に盛る。その皿さえも選択する。

料理に準じて様々な器を使い形を選ぶ。そうして食卓を飾ることをも忘れな

い。味わってよく見てよい食事が上々である。食欲をそそる是等の凡ての準

備が、消化を活発にさせ、栄養を増進させる。唾液や胃液の分泌が、料理の

内容や形態に左右されるのは事実である。味わいが乏しかったら養分として

の働きを全くすることは出来ない。栄養は只肉体的なことではない。これに

心理的作用が加わってこそ益々栄養価が高められる。若し食欲が単なる肉体

的性質のものならば、料理は発達の歴史を有たなかったであろう。そうして

人間は幸福の大きな面を知らずに終わったであろう。

 渇く時、人は水を飲む。それは両手でも飲めるであろう。大きな一枚の葉

でも役立つであろう。だが出来るなら水呑を用いたい。もっと飲心地がよい

からである。特に夏ででもあれば硝子器を求めるであろう。一番涼しい快適

な心で水を味わうことが出来るからである。硝子体を通して水は更に水の姿

を増してくる。これで人は水を愛しつつ水を飲むことが出来る。この悦びは

水の味わいをすら増すであろう。だが冬であれば陶器がよい。特に温かい茶

にはそれが適する。なぜならそれが茶を更に茶にしてくれるからである。陶

器を欠けば茶は充分に茶たることが出来ないとも云える。

 この食物の例は工芸に於ける用の意義を明らかにする上によい示唆を投げ

よう。生活への用途を物質的な意味にのみ取るのは間違いである。若しそう

取るなら、工芸品が美しき工芸品たる性質を有たなくなるであろう。用には

深く心理的用も交えていることを忘れてはならない。

 私は又他の一角から用の性質を眺めよう。ものを用いるとはものに触れる

意味である。聞くとか、置くとか、支えるとか、握るとか、持つとか、触覚

に拠ることが多い。この場合、触覚は主として五つの性質に向かって働いて

ゆく。堅いか軟らかいか、重いか軽いか、温かいか冷たいか、滑らかか荒い

か、丸味があるか角張っているか、品物の性質によって是等の触覚の何れか

が相応しい。材料の選択も主として是等の要求に左右される。箱に桐がよい

のは軽さを求めるからである。だが机には用いない。軽過ぎるので動き易く、

柔か過ぎるので傷がつき易い。夏の着物には麻がよい。冷たさと涼しさとが

あるからである。だが冬にはこれを避ける。各々のものは時に応じ物に準じ

て適宜な触覚の快よさを求める。この快よさが無くば効用は半減される。

 特に手に触れるために添えられるもの、水注の手や、土瓶の把手や、引出

の引手や、数えれば数々あろう。是等のものは或は握り易きように、支え易

きように、又引き易きように、適宜な大きさや厚みや幅さを有たねばならな

い。触覚はそれ等の凡てのものに扱いよき心地よそを求める。あの運び盆が

重すぎたり、座布団が堅すぎたり、書く紙が荒すぎたりしたら、触覚に逆ら

うから、用にも背いてくる。

 だが私達は触れることを通してのみ物に接しているのではない。同時に眼

に見つつ用いるのである。だから見て汚く醜いものは、効用を殺ぎ機能を鈍

らせて了う。視覚が係わるものは三つある。形と色と模様と。光沢は色の中

に含めておこう。ここでは形は大小、厚薄、高低の差を有ち、色は色調の差

に、濃淡、明暗の別を加え、模様は粗密、多寡に分かれる。是等のものがど

ういう場合に美しくなるのか。只見る立場からのみ作って美しくなるか。決

してそうではない。用の機能に調和せずば美しくはならない。形は主として

用に堪えるための構造から発し、色は主に素材の質から発し、紋様はしばし

ば工程から発する。椅子に見られる形の美しさは何なのか。それは用途に適

する構造から来る。漆器に見られる色の美しさは、何なのか。塗料たる漆の

性質による。絨緞に見られる模様の美はどこから来るか。織るという手法か

ら生まれる自然の結果である。是等の用途を目的とした素材や工作上の必然

さがあればこそ、ものが美しくなるのである。この必然さを欠く場合、又は

この必然さが薄らぐ場合、美しさのための美しさとなる場合、工芸の美には

危険が迫る。

 ここで刺繍の歴史は興味深い暗示を投げる。それは只飾らんがための飾り

ではない。元来は刺し子に始まり、刺し子は縫いに発したのである。着物に

見られる刺繍の多くが、襟、肩、背、袖先、裾に見られるのは、かかる場所

が一番痛み易く、いつも繕いを要したことを語っている。繕いという実際的

必要が、刺すことを求め、漸次に刺し子着に進み、遂に模様刺しに達し、そ

れが装飾をも兼ねるに至ったのである。それは「美しき繕い」を語っている。

この必然さが刺繍に存在理由を与えてくれる。だが同じ刺繍が遠く用を忘れ

て、刺繍のための刺繍となる時、それは過剰な存在に入る。込み入ったごた

ごたしたものに美しさが却って欠けてくるのは、当然な命数ではないか。視

覚からだけで作るなら、正しい工芸品には成り難い。それは用を無視してく

るからである。見ることが用いることの有機的な一部となってこそ、物が見

ても美しいものになるのである。ここでも用を離れたら見て醜い姿に陥らね

ばならなぬ。

 私は感覚のうち触覚と視覚とが、如何に用途に働くかを見た。だがこれに

加え、しばしば他の感覚も交じってくる。聴覚も決して怠惰ではない。心地

よき音はものを使いよくする。引き出しが柔らかな音を立てるのは諧調であ

る。軋めば使いにくい。誰もそれを悦びはしない。陶器は金属の盆に載るこ

とを嫌う。音が危なげだからである。木の盆なら安堵しよう。絹布のすれ合

う澄める音、引く襖の滑らかな音、人知れぬ快よさを与える。茶人達は茶釜

に湯がたぎる音に、松風の聲を聞いた。

 嗅覚も時としては用を助けてくれる。正藍の香りは有名である。楠材の芳

香は世界に名がある。ホーム・スパンも香りで真偽が分かる。箪笥の引出し
 ジャコウ
に麝香を納めるのは主婦のたしなみである。

 味覚は直接用に関与することが少ない。だが煙管の吸口に多く銀を用いる

のは、味をそこなわないためであろう。

 顧みると、用にはどこまでも心と物との結ばりがある。この調和が完くせ

られる時、用はその性質を残りなく発揮する。そこに工芸の美の保障がある。

 実例に一枚の着物を挙げるとしよう。それは体の保温のためになくてはな

らない品物である。だが単に保温のためのみなら、別に柄は要らないであろ

う。色は黒一色でも足りるであろう。だが冷温は只物質的現象だけのことで

はない。ここでどんなに心理的作用が交わるであろう。温かさは温かい気持

ちを誘うことで尚温かになろう。涼しいものは、同時に涼しく見えるもので

ありたい。着心地がよいものは、尚着物としての性能を増そう。ここで素地

や色や柄がどんなものを言うか。只被うためなら美しさなどどうでもよい。

だが美しさは着たい気持ちをそそる。だから美しさが着物をもっと着物らし

くする。美しさを感ずるのは只見る眼を通すばかりではない。肌ざわりや、

香りや、音すら加わって、美しさが増すのである。着物は凡ての感覚が迎え

る着物なのである。どこの国でも着物は美しさを追う。着物は美しい着物で

あってこそ、着物らしい着物に成る。醜い着物は着物としての機能を充分に

発揮することが出来ない。特に人々は女の着物を美しく織る。それは女を更

に女にするからである。

 ここで形や色や模様の明らかな存在理由を捕らえることが出来る。それ等

のものは皆用の一部なのである。用に根ざすが故に、それ等のものが存在す

るのである。用を離れたり用に叛いたりするなら、それ等のものは存在の価

値を失うであろう。だから工芸では用から生まれた美しさのみが、美しさの

正しい性質を受ける。

 暮しは色々なものを招く。それに応じて適宜な材料が選ばれ、適当な形が

整えられる。被うための柔らかいものが、入れるための深いものが、載せる

ための平たいものが、懸けるための曲がったものが、求めに応じて色々に工

夫される。ここで実用の機能を充分に果たすためには、三つの性質が呼ばれ

る。一には用に堪えるように作られねばならぬ。用いるというからには、ぢ

きに壊れたり裂けたり褪せたり外れたりしてはいけない。丈夫さがここで要

求される。それは機能を強め用の割役を充分にさせる。だが只丈夫一方では

いけない。二には使いよいようにせねばならない。取扱い易いようにせねば

ならない。いくら丈夫でも重過ぎたり硬すぎたり、持ちにくかったりしては

いけない。使い工合いのよいものにしないと不便なものに陥って了う。だが

この性質にもう一つ加わってよいものがある。つまり使いたい気持ちを起こ

させる性質が加わるなら更によい。この第三のものは用いる悦びを指すので

ある。色や模様や形はこの求めに応じる。日々一緒に暮らしていて気持ちよ

いもの、満足や情愛を誘うもの、かくなってこそ用は始めて充分な働きに入

る。右のうち一は主として物理的な性質、二は物理的性質から心理的性質に

繋がるもの、三は心理的性質が最も濃い。これ等のものがよく調和して品物

が完き用途を果たすのである。謂わば品物が品物に成り切るのである。だか

ら品物の正しい美しさは、用から発足する。用を満たしてのみ、美しさが妥

当なものとなるのである。

 だからここで是非とも注意しなければならない事柄が起こる。今述べたよ

うに体への用と心への用が調和する限りに於いて、用は完き用に入る。だが

一度この均合が破れたとしよう。もはや完き用を果たすことが出来ない。用

を果たさずばもはや正しい品物はない。だから美しい品物もあり得なくなっ

てくる。ものが醜くなるにはいつも二つの原因が見える。

 一つは心理的作用を軽んずる場合である。それは形を乱し色を濁し模様を

失うであろう。味も何もないものに陥って了う。かくなると、ものは粗末に

作られてくる。だがこのことがやがて機能を弱め、物理的働きをも低下させ

てくることは前にも述べた通りである。只功利的なものは、却って貧しい功

利に終わるであろう。

 第二はこれと逆に物的用途を二次にして、心的なもののみをひたすら追う

場合である。だがこれは工芸本来の意義に悖る。実用への否定を意味して来

るからである。かかるものの通弊は装飾に過ぎて、ものを使えないまでにし

て了う。見るための品を作る人々にはこの弊害が極めて多い。そうしてかか

る作品は結局最も美しい品物とは成り難いであろう。たとえ見るためにはよ

くとも使うためには悪いという矛盾に逢着する。それを健全な工芸と呼ぶわ

けにはゆかない。健全でなければ、どうして美しい工芸に成り得るであろう。

 仮りに形が必要を越えて複雑となったり、模様が度を過ごして煩わしくなっ

たとするなら、用を忽ち乱すであろう。心理的要求が物理的要求を掣肘する

なら、又逆に物理的要求が心理的要求を無視するなら、もはや正しい品物は

あり得ない。物心の均合が破れれば実用の域を脱して了う。このことは機能

への破壊である。

 だから形や模様や色彩は、用を活かす範囲に於いてのみ許されねばならな

い。用を乱す場合は棄て去ってよい。例えばここに食物を盛る皿があるとし

よう。かかる皿に多くの模様を多くの色を以て描くことはひかえてよい。な

ぜならよく盛られた食物は、それ自身、よい模様であり、よい色だからであ

る。絵模様が勝過ぎると折角の料理を殺して了う。それでは用に適った皿と

は云えぬ。多くの場合無紋が却って美しいのは、用の機能をもっとよく果た

すからである。無紋には人間の誤謬の入る余地が少ない。

 所謂「工芸美術」がしばしば陥る錯誤は用を無視して、使えないものを作

るにある。だが工芸の領域では、純粋に美を追って作られる作品が、用に即

して作られる作品より、更に美しかった場合はない。工芸美術はいつも用を

離れて、心で楽しむものを作ろうとする。用途は二次で鑑賞が目的である。

この方が作品をずっと美しくすると考えて了う。だが用いるという綜合的働

きから、見る一面をのみ抽象して、品物を作ろうというのは自家撞着ではな

いか。さきにも述べた通り用は物の用と心の用とを兼ね備えた綜合的なもの

でなければならぬ。心だけを引き離して、そこに道を見出そうとするのは用

への破壊である。だがかかる破壊は用品を美しくしない。だから工芸品であ

る限り用の本体を軽んずる如何なる作品も充分美しくなることが出来ない。

工芸美術が全体として示す弱味は、用を軽んずる所に由来する。見るための

工芸は一流ではない。用いる工芸にして始めて本格である。そうして用いる

ことの中にこそ、見て美しい要素が包摂される。用いることを離れて美しい

ものを作ろうとしても、見て真に美しいものとはならぬ。

 だから美しさは働きにあるとも云える。働きの機能と美しさとは一つだと

も云える。なぜ簡素な単純なものが美しいか。それは働きに適した姿だから

と答えてよい。なぜ繊弱な性質が、真の美を産まないか。労働に堪えないか

らと説いてよい。なぜ健康の美が美の帰趣と云えるのであろうか。それは最

もよき働き手たることを意味するからである。病いがあるものは用を果たす
                              ランダ
ことが出来ぬ。構造の美は強壮な体格の美だとも云える。働く者が懶惰であっ

たり、感傷に耽ったりしてはならない。不誠実であったり華美であったりし

てはならない。それ等の凡てのことは働きに悖るからである。用の性質を去

れば工芸の美の保障はない。

 或はここで「用」という言葉を「生活」という言葉に置き換える方が更に

よいかも知れぬ。生活は物心の生活である。凡ての工芸は生活工芸でなけれ

ばならぬ。従って生活の幅や広さや深さは、やがて用いる品物にもそれに適

う幅や広さや深さを求めてくる。生活と工芸とは分かつことが出来ぬ。一体

となってこそ完き生活がある。それ故健全な工芸なくして健全な生活はない。

又健全な工芸を要求しない健全な生活はない。文化はかかる完き生活にこそ

基礎を置かねばならぬ。だから生活の具体的表現である工芸こそは、一国の

文化度を示す、最も簡明な秤だとも云える。


                   (打ち込み人 K.TANT)


 【所載:『工芸』 第105号 昭和16年10月】
 (出典:新装・柳宗悦選集 第7巻『民と美』春秋社 初版1972年)

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